星影がみえた夜

何気なくみていたTVで面白い民宿を紹介していた。

岩手県の人里離れた山奥にある、古民家を利用した情緒あるたたずまいの民宿施設だった。
ドアを開けると囲炉裏があって、天井には干し柿がぶらさがる・・里山のゆるりとした雰囲気の古民家の一部屋に泊まることができる、いわば流行りの”農泊”のようなスタイルをもった民宿だ。
ここまではいたって普通だが、何が面白いかというとこの民宿、もう何十年と電話を引いてないのである。したがって客は予約をしたければ手紙を送り、直前のキャンセルには電報を打つという変わりようだ。

しかし、僕が本当に感銘を受けたのはこのことではない。
それはオーナーの夫婦が語った「電話を引かない理由」だった。
夫妻は落ち着いた口調でこう言うのだ。

「電話のない暮らしは、静かで不便もなくていいんですよ。」

それを聞いてふと、思うのだ。
本来当たり前であるはずの「(人工音のない)静かな暮らし」は
この日本ではあまりにも遠い日常なのかもしれない、と。

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頭の中によみがえる風景がある。

2012年4月、僕は1200キロにもわたって一切の町がない南オーストラリアのナラボー平原を自転車で走っていた。
ナラボー平原は南側を海と接している。
その崖っぷちに自転車を停め、テントを張った夜があった。

新月の夜だった。
地図を見れば直径100キロ圏内に一切の人工物はない。
夜が更けるとともに凄まじい星々が全天をおおった。
弾けるように明るい天の川の中に、南十字星やオリオン座がいっそう激しく瞬いている。
星空に吸い込まれそうになる、という言葉はまさにあの瞬間を意味するのだろう。
そのとき星空を「怖い」と思い、テントに戻ろうと地面に目を向けた。

そこで見たものが忘れられない。
それは地面に映る自分の影だった。

“月影”という言葉は聞いたことがあるとしても、”星影”など聞いたこともない。
でも確かに星の明るさが僕に影をくれていた。

海からのつめたい風が、闇の向こうに広がる草原の広大さを教えてくれている。
大地の広がりを心の中に広げていく。大地と空低く迫る星々に挟まれる。
人間という小さな生き物が感じる卑小感。孤独感。

そこでは星も大地も風も生きている。
大地をおおう静寂さえも、説明しがたいある種の生命(いのち)を伝えてくれる。
生きものと対峙するため、こちらも人間をすてて、”生きもの”そのものとなる。
生命と生命がぶつかる緊張感を、その時感じたのだった。

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そして日本に帰ってきた。
部屋の中ですべての音を消してみたって、町はずれの夜道を歩いてみたって、
それはあの時感じた静寂とはまったく違う。
少なくとも、この静寂は生きてはいない。

きっと岩手県の古民家のオーナーは、彼らの生活の中でほんとうの生きた静寂を見つけたんじゃないか。TVを通じてオーナー夫妻の顔を見ていると、そんな気がしてならなかった。

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誰もが生きた静寂を心の中に持っていていいと思う。
その静寂はきっと、いつか人生の大事な場面で、力をくれるからだ。

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成田から仙台へ / ボランティアでの想いごと

帰国翌日――

せまいせまい成田街道を、空港から東京・都心部に向けて自転車を漕いでいた。
2年前、オーストラリアに発つべく成田空港へ向かっていたのと同じ道。
あの時休憩した公園、買い物をしたスーパー。
不思議とそんな場所をよく覚えていることに驚いた。

ユーカリ茂るエバー・グリーン(常緑樹)の国から落葉樹の国に来たという事実が、なぜかとても印象的だった。紅葉も終わりかけた雑木林に、忘れ去られたように色ずくカラスウリの実。田園の真ん中にたたずむ、たわわに実ったカキの木。
苔むした道端の道祖神がふいに現れ、視界の奥へと遠ざかる。
まっすぐ流れる小川。道案内をするかのように小さく何度も舞うセキレイ・・。

「あぁ、日本にいるんだなぁ・・。」と心の底から思った。

うれしいわけでもない、悲しいわけでもない。
東京へ向かう成田街道で抱いたあの感情は、いったいどう表現すればいいのだろう。
生きて帰れた少しの安堵感と、落葉した木々が安堵感に混ざり合って生まれた、終わりゆくものへの愛おしさ・・・。
日本にいるんだなぁ・・、何度もそう心の中でつぶやきながら、ペダルをこぐのだった。

東京のバックパッカーズに数泊し、連日友人たちに会って再会を喜んだ。
その後3泊4日で宮城県仙台市まで走り抜け、
名古屋行きのフェリーに乗った時点で本当の意味で旅が一区切りを迎えた。

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仙台に行ったのはほかでもない、震災復興のお手伝いを少しでも出来たらと思ったからだ。
震災の時、自分はタスマニアの一番南の町にいた。あの時からずっと思っていたことだった。
「帰国したら真っ先にボランティアにいこう」と。
津波で流された写真の洗浄作業をしている団体と、除塩など農業支援をしている団体に一日ずつお邪魔し、また一日は自転車で沿岸部を走った。話を聞いた誰もが口をそろえたのは、ここ一年復興が停滞しているもどかしさ、だった。まだまだ人手はいるのだ、支援はまだまだこれからいるのだ、と。また被災した沿岸部を案内してくれた男性は、枯れた防風林の下に車を停め、遠く残照に浮かぶ仙台市の夜景を指さしてこう言った。
「以前はこっから仙台の夜景なんて(住宅に遮られて)見れなかったんだよ」。

一面の枯れた”草原”を前景にして浮かびあがる仙台中心部の夜景。
草原の下には家の基部が残されたままだ。
それらを見ながらこの言葉を聞く・・
それは、どんな映像よりも新聞記事よりも、心の奥底に響くのだった。

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Leaving AUSTRALIA

高層ビルが立ち並ぶパースの目の前の海に、黒鳥の一家が住んでいた。

自転車での大陸横断を終えてパースに到着した6月。
初めて目にした4羽の子どもたちはヒヨコほどの大きさしかなく、一生懸命に親の後をおっていた。
それから5か月間、仕事に行く度に彼らのそばを通るようになると、
僕はいつのまにかまるで親のような感情をもち、彼らの成長を見守った。

ふわふわの灰色の毛をまとったヒヨコたちは少しずつ黒い羽根へと衣をかえ、首もすらりと伸びていった。無事に立派な”黒鳥”へと成長した4羽はいま、夏のパースの水辺を優雅に彩っている。

成長を終えて穏やかに水辺に浮かぶ彼らを眺めていると
安堵なのか何なのか、
「自分も、”次”へ進むときかな」
そんな気持ちが自然とこみあげてくる。
そろそろ、自分も新しい道に歩みを進める時期なのだ。

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AUSでの2年をここで振り返ってもみたいけど、ここでは「自転車との付き合い」に絞って2年間の自身の変化を書いてみたい。

幾度もこのHPで書いたけれど、AUSを自転車で走ってみて一番の驚きは、ハイウェイですれ違う世界各国からの自転車野郎たちの年齢の高さだった。

自分の父親とそう変わらない年齢の人たちが、若者のような情熱と行動力を持って自転車旅をしている。たった一人、あるいは夫婦で、テント一式を積んでAUSの荒野を走っている・・。
「自転車旅は所帯をもって落ち着く前の、体力のある若者にしかできないこと」・・以前はそう思い込んでいたけれど、”世界基準”はどうやらそうではないらしい。本人が情熱を持ち続け、しかるべき体力さえ維持していれば、自転車旅というのはいつでもどこでもできることなのだ。
(ナラボー平原で70代のサイクリストに会った時の、その衝撃と言ったら!)

この事実は自分の人生設計を大きく変えた、と思う。
「20代のうちに一気に自転車で周れるところを周ろう」
・・ここ5-6年持っていた考えは今ではこう変わった。
「人生のどのステージでも長距離サイクリング(やアドベンチャー)ができるような生き方をしていこう」

エスぺランスという町で死にかけたこともかなり大きい。
「やりたいことを今すぐやろう。今すぐにでも留学をして英語の習得をしよう。」
あのとき頭をよぎった想いは、上記の生き方の方針と見事に方向が一致・融合して、今では一つになった。

それは簡単に言えばこうだ。

「海外でこれからも生きていこう」

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留学して現地で仕事を取れれば永住の道も見えてくる。調べてみれば移民というのは金持ちや天才だけの夢物語ではないことも分かった。ならば、この道を次の夢としてやっていこう、と。

AUS大陸横断で中断した自転車旅は、これから人生をかけて少しずつ進めていく。まだアジアもアメリカも走ってない。まだまだ、まだまだ、やりたいことはいっぱいある。いつかまた死にかけたとき、「これまでの人生に不満はない」と、そう思えるように行動をとっていきたい。

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アウトドア好きはニオイでわかる

先日小用があってパース市内の病院へ行った。
ナラボー越えの時に悪くした右目がまだ完治していないので、
目薬欲しいな、と思って旅行保険もないのに意を決して診察を受けることにしたのだ。

担当ドクターへの病状説明の際、どうしても「自転車旅のときに」という単語を入れざるを得ないのでしょうがなく入れるのだけど、5月のエスぺランスの病院ではそれでナースからの質問攻めに遭うという散々な(ありがたい?)目にあっている。

今回も症状は同じだったから似たような説明をした。
するとどうだろう、物静かそうなそのドクターは不敵な笑みを浮かべて、
「・・ナラボーの風はどうだった?」
と、興味を隠し切れないという風に聞いてきたのだ。
その言いかたは、俺も時間があるときは長期サイクリングやってるぜ、と言わんばかり。診察以外の会話自体はその程度だったけど、まったくこのオーストラリアという国は”アウトドア人”に会う確率があまりに高いことに、改めて驚き、そしてうれしく思うのだった。

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そういえば、今のシェアハウスの仲間の一人にオランダ人のロバートという男がいる。彼もまたアウトドア好きの変態だ。

ロッククライミングが趣味でオーストラリアに来てからも人工壁のあるクライミングクラブに毎週のように通い、「来年はNZのマウント・クック(3754m、同国最高峰)に登るのだ」と言って10kgのバックパックを背負って付近の公園にある展望台を日々何十往復としている。
彼は毎回帰ってくるなり俺にこういうのだ。

「今日は展望台(の階段)の往復を○○回やったから、マウントクックの△△合目付近まで行けたことになるんだ…!!」

・・これはもう変態の所業という他ない。

ただ、その話を聞いているうちに、俺もいつかマウントクックに・・なんてことを思い始めてしまう自分も、おそらくロバートと同類なのだろう。

長距離自転車とマラソンについては俺のが上をいくが、
クライミングと雪山登山については彼が一歩も二歩も上。
(ついでに英語もロバートが断然上。)
お互い学ぶことが多くて会話が面白くてしょうがない。

パースでの最後の数か月は、こんな出会いを楽しみながら、なかなかオモシロくやっていけそうな気がしている。

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パースマラソン、完走!! -自己流完走術2-

※写真ギャラリー(オーストラリア)更新
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そのとき、「40キロ地点」を示す看板が目に入った。
街頭にはゴールするランナーを一目観ようと観客があふれ
快晴微風の絶好の天候のもと、大声援をうけ始めていた。
42.195キロのフィニッシュ・ラインはもうすぐそこにある。
なんだか愉快な気持ちになって、自然にラストスパートがかかった。

右足に違和感がはしったのはそのすぐ後だった。
(まずい・・・右足がつりそうだ・・。)
なんとかゴールまでもたないだろうか・・そんな願いは虚しく青空に吸い込まれ、ゴール10メートル手前で足がつって動けなくなってしまった。
フェンスに寄りかかりストレッチをして足をなだめる。
女性の係員が駆け寄ってきて声を掛けてくれた。ちょっと足がつったんだ、大丈夫と笑顔で返す。観客も、係員も、そして自分を含めたランナーも、ゴール周辺は祝福ムードがあふれ、なんとも暖かな雰囲気だ。
結局ゴール目前で2分ものびのびとストレッチをして、歩いてラインをまたいだ。時計は3時間52分を指していた。

42キロの中にいろいろな出来事があったけれど、
なぜだか一夜たった今は、ゴール前の2分間が妙に印象に残っている。
タイム的には2分のロスだけど、あの特別な空間に2分も身を浸していられたのは、きっと「幸運」なことだったのだろう。

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パースマラソン シティ・トゥ・サーフ 2012、
結果は3時間52分33秒。目標の4時間を切ることができた。

海外マラソンは初だったけれど、
日の出前に号砲がなるのも(早朝6時!!)、
ぜんぜん観客がいないのも(朝が早すぎて)、
ほとんど警備員がいないのも(朝が早すぎて?)、
そのくせエイドステーション(水などの補給ブース)はすさまじく多いのも、
日本のマラソンとはあらゆる面が違っていて面白かった。

ランナー同士もかなり気軽に話し合う。
20キロ地点で手前にいたおっちゃんは、「あぁ、コーヒーが飲みたいよ」とつぶやき、となりの若者は「それならあの辺にコーヒーショップあるよ。いってきたら?笑」とさらっと返すのだった。

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最後に、「自己流完走術その2」として一点大事なことを追記しておきたい。

マラソン直前に、五輪に出場した藤原新選手の敗戦インタビューを読んだ。
敗戦の弁云々はともかくとして、彼はマラソンを完走する上でとても重要なことを言っていて、自分もその言葉をなんどもレース中に思い返して完走に至った。彼の言葉はおそろしく有効だったと言っていい。

その言葉はこうだ、

「マラソンはきれいな動きでリズムよく走ることが何よりも大事です。」
「後半はそのリズムという高速道路に乗って、スーッと進むといいでしょう。」

後半はクルージングするイメージ、とも言っている。
マラソン後半、疲れが出てきたときこそ、フォームを整えて「リズムよく、リズムよく・・」と意識するといい。
練習で完成させた自分のフォームを信じてリズムにのって走るイメージを持つ・・これは特に「フル」マラソンでは信じれられないくらい効果がある。

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