決意書、なるもの

大学を一年休学してニュージーランドに行ったときは「決意書」なるものを書いた。
だから今回も、と思っていたが、どういうわけかあまり書く気がおこらず
あれよ、という間にフライトの出発時間を迎えてしまった。
というわけで、これはシドニーへ向かう飛行機の中で書いている。
時間は日本時間22時。海の上なのだろうか、外は真っ暗だ。

「決意書」は今書くべきものじゃなかったな、と今更ながら少しおもう。
それを書くとしたら、きっと会社を辞めて社会人に見切りをつけると決めた
1年ほど前のその時にこそ書くべきだったろう。
長々と書く必要すらないのかもしれない。あの時決めたこととはただ一つ。
「自分が心の底からやってみたいと思うことに情熱を注ぐ生き方をしていく――」
ただそれだけだったのだから。

それでも今、少しだけ書くとしたら・・

≪きっかけ≫
これから自分なりの人生を創って行こうと考えて、出てきた答えの一つに「海外を自転車で周る」があるのだけど、
そのいちばんの原点には、象徴的に、NZのカウリの樹との出会いがあるのではないかなと思ってたりする。

NZに1年いたとき、北のほうにでかい樹があるらしいから見に行こうと、
友人とヒッチハイクの旅をしたとこがある。
目的の森に苦労の末にたどりついて、森の中でふと顔を上げたそのとき、
一本の樹を前にして、何か地球の本当の姿を見たような気がしたのだった。

南半球の国の果てでみた、神々しいほどに大きなカウリの樹(その時みたのは、カウリの種のなかでも最大級のものだった)。

NZでこれほどのものがあった。
だったら次は・・
ほかの国々を自分の足で回ることができたなら・・
あのとき初めて、”若者であるうちに何をするべきなのか”を意識したのだと思っている。

≪自転車≫
大学卒業後から自転車にはまった。
きっかけは沖縄本島を自転車で一周した経験だ。
徒歩以上車未満の、自由な移動手段。
雨や風など、天候の気まぐれを一身に浴びるという至極”不便な”スタイルも気に入った。

坂本達の『やった。』、石田ゆうすけの『行かずに死ねるか』などの著書の存在も大きい。
愛読書となったこれら自転車での世界一周旅行記が
意識上の壁を取り払ってくれたことには感謝してもしきれない。
「人はやろうと思えば自転車で地球を回ることだってできる」。
無理難題に見えたって、そこに立ちふさがる壁などなく、隔てるのは自分の意志でしかないと知った。

「地球の大きさを、自分もこの足で感じてみたい。」
こうして、「若者であるうちにすべきこと」と「自転車」が結び付いた。

とはいえ日本でだってロクに自転車をこいだ経験はない。
じゃあまずは、比較的小さな(地球規模でみたら、の話)、南半球の大陸からやってみたらどうだろう。
調べてみると、その大陸は一周だいたい1万5千キロ。
治安もよさそうだし、自身を試す場としてちょうどいいのではないか――
そうして今、南へ向かう飛行機にのっているのだ。

《オーストラリアの地で》
その南半球の国オーストラリアでやってみたいことはいくつかある。
箇条書きにすると、

・自転車での大陸一周
・農場での資金稼ぎ(フルーツピッキング)
・世界遺産地域(タスマニアなど)での数日単位のトレッキング
・自然保護区でのボランティア(できれば島で)
・7大陸最高峰のひとつ「コジウスコ」登頂
・英語の習得(旅行会話以上)
・カメラの修行(自然写真)
・アウトドア技術全般の向上
・先住民族アボリジニーを深く知ること

などなど。1年ではまず足りないので、
ワーホリビザの「農場3か月労働でビザ1年延長ルール」を使って2年ほどいるつもりだ。

ただ正直なところ、箇条書きを見てもわかるとおり
自転車での大陸一周、そしてそのあと予定する海外ツーリングも、目的というより手段に近い。

「じゃあ旅のゴールとはいったいなんなのだろう。」
それは自分自身でも答えの出しにくい、長い間言葉にできない問いだった。

《旅のゴールはなにか》
たとえばフルマラソンで35キロ地点くらいを走っているとき
たとえば自転車で連日100キロ走っているとき
たとえば登山で2日間に24時間歩きとおすようなとき

体は途方もなく疲れているのに、頭は逆に冴えわたり、
自分だけ異次元にいるような感覚に襲われる。
手足の先の先まで、体力とは別の何か(生気とでもいうか)が満ちてきて
自分の命と、周囲の命あるものみなとが体の中で調和されていくような感覚に襲われることがある。
特に自然の中にいる時この状態に入りやすいと思う。

これは「~ズ・ハイ」と言われる状態だろう。
不思議と、こういうときは「心の声」ともいうべき、自分の考えのエッセンスの部分と出会いやすい。
自然、「自分が心の底からやってみたいこと」への答えも出やすいと思える。

自分が旅にでる最大の理由はここにある。
大きく過酷な自然環境のなかで自分の命をさらけ出すように旅をすれば、
常にこれに近い状態でいられるのではないか。
その中で出す答えは、信じるに足るものなのではないか。
自転車も農場もトレッキングも何もかも、理由はこれで説明がつく。
手足の先の先まで生気で満たされるような生活―アラスカ原野で暮らす人々は、これを”FULL LIFE“と呼ぶ―
の先に、必ず「次のステージ」は見えてくると思っている。

その次のステージを創り上げていくことが、おそらくこの旅のゴールとなるのではないだろうか。
いつになるかはわからない。どこでできるのかもわからない。
でも、旅はこうでなくちゃいけないし、わからないから面白い。

すべての行程を楽しみながら、進んでいこうとおもっている。

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2 Responses to 決意書、なるもの

  1. 1 のコメント:

    新ブログ設立おめでとう~。
    僕は、もっともっと絵を描いて
    描いて描きまくって、
    遅筆でも構わない。
    何とかして世に送り出してやる!

    負けね〜ぞ(^^)(何に?(笑))

    あ、それととりあえず事故んなよ。

    • chirujirou のコメント:

      おっ ありがとう。
      そうだねー俺も写真作品に日の目をあてれるよう
      がんばるよ。計画たてて学ばなきゃ。
      事故はたぶん大丈夫だ。治安もいいし、やってけそうです。

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